フィクションとそうでない言葉の違いって何だろう。
「批評の言葉(形式)は常に正しいことしか言えないから小説に行った」、とある作家が述べていて、そのことは最近つよく意識してる。
ネタや与太、戯言はどの辺りに定位されるのか。
小説だからイコールフィクション,という単純な問題ではないだろう。
具体的に思い浮かべているのはゲッツ板谷『ズタボロ』(特にラスト)、吉田豪『YAWARA、その愛。』の文体。そしてこの作者二人がツイッターやエッセイ、コラムで使う言語との関係。
芸能に限らず、縛りのある大人の世界では、ある程度のフィクション性が混ざるよね、たぶん。嘘をつけなきゃサラリーマンつとまらない、てビジネス本で読んだ記憶がある。たしかにそうで、ある文化圏ではウソつくことを過小評価してるキライがあるよ。
まだ茫漠とイメージがあるだけだが、ある状況をまるく収めるための方便的な嘘と、小説のフィクションはけっこう近いんじゃないかと思ってる。少なくとも発生源はお隣さん同士というか。
(続く)
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