病院の待ち時間に『三国志演義』読んでいるんだけど、非常に面白い。本を読むような気分でもなかったのだが、それ(そのような状態に読者や受け手があること)を前提にして作られてるのでは、と思うよ。
ダンテは民衆の言葉で『神曲』書いて、彼らにも支持されてた(る)と聞くけど。
『失楽園』にしたって、日本人にはお勉強な固有名詞も歴史オタが武将の名前等に耽溺するのと似た所があるんだろうし、純粋に娯楽の要素が強いんじゃないかなあ、と。
箔付けの割合はそこまで強くないと感ずるが果たしてどうか。
グラスの『ブリキの太鼓』が少なくとも今の時点で読ませる力が弱いのは、例えば十九世紀の御大たちに比べると若干見劣りする点があるのかなあ。と感ずるが。
うーむ。とりあえず読了まで判断保留。
ただ、諸条件から十九世紀(以前)のメガノベルは大衆小説の要素と、芸術の要素が混交していて、そうしてそれは、現代の長篇小説に対する「こんなに長い必要ある?」って身も蓋もない冷徹な疑問とつながってる筈だ。
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