2012年4月25日水曜日

メモ:何を書いたか、と何を書こうとしたのか(無意識と意識)

  作品全部ではなく、その一部をおさめたのは、なにを書いたのか、ではなく、なにを書こうとしたのかを、知ってもらいたいと思ったからだ。
 いつもの年より、ずっとたくさんの「ことば」を、ぼくは書いた(発した)。いつもなら書かないだろう、そんな「ことば」も、ずいぶんあった。
(高橋源一郎『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』「おわりに」:2012年1月6日)

上の文章を読んで、なぜ作家や思想家の全集を読むのが必要か、得心できたような気がする。
雑文を含めた全集を読むことは、その作家の無意識を、言い換えれば文字通り「何を書いたか」を読むことにほかならないのだ。「一般意志」(東浩紀orルソー)をすくいとること、もしくは無意識を読み解くことを類推させる。
対して編集されブラッシュアップされた「何を書こうとしたのか」を読むことはその作家の意識を読むことであり、「人間VS動物」という対立軸の「人間」部分だけを相手していることになる。のだろう。
ただ、それが商品(書籍など)として流通するか否か、という問題を度外視しているけれど。すべての制約をとっぱらって云えば。
(メディアに露出させている(コントロールされた)意識以外の全方位的な──オールレンジの──ふるまい(無意識部分)が顕わになるので、Twitterは軽薄だと思われていたり、メディアのフィルターで過小評価されていたひとが見直されたりする、あるいはその逆の現象が起こる場所になっているのでしょうね。多くのひとにとっては言わずもがなでしょうが、活字世代には存外意識されていないような気がします。)

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