十分には判らないけれど、直感的に非常に重要な指摘だと思う。
プラグマティズムというか、利用可能性(これ、実際に使えるの?)の見地からはどうなのだろうという素朴な疑問はあるけど。
無垢は無知である。無垢においては人間は精神として規定せられているのではなしに、おのが自然性との直接的な統一において霊的に規定されている。精神は人間の中で夢を見ている。(中略)
このような状態のうちには平和と安息がある、しかも同時にそこにはもっとちがった何かがあるのである、但しそれは断じて不和や闘争ではない、──なぜといってそこには争うべき何ものも存しないのだから! それならそれは何であるか。無だ! しかしどういう作用をするのか、──無は? それは不安をつくりだす。無垢は同時に不安であるというこのことが、無垢の深い秘密である。夢見つつ精神は自己自身の現実性を前に投影する、ところでこの現実性は無である、さてこの無を無垢はたえず自分の前に見ているのである。
不安は夢見る精神の規定であり、それ故にそれは心理学の領域に属している。覚醒の状態においては私と私の非=我とのあいだには区別が措かれている。眠りのなかではこの区別が中和せられ、夢のなかではそれはほのめかされた無なのである。精神の現実性はいつも、おのが可能性をさそいだすところの姿をとって現われる。しかし精神がその可能性を捉えようとするや否やそれは逃げ去ってしまう、可能性はただ不安をひきおこしうるだけの無にすぎないのである。可能性にはそれ以上のことはできない。それはただ自分を示しうるだけである。(後略)
(キルケゴール『不安の概念』「第一章:五 不安の概念」)
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