一年経った。
いつ何が起こるかわからないので、いま考えていることを記しておく。
1-1.
Twitterで、246に黙祷を捧げる人は案外少なかった。
当然だが一年前とは状況が変わっている。一体感、高揚感は鳴りを潜めてる。
TVで平成天皇のスピーチを見たことをツイートした。
1-2.
東浩紀さんが、一年前の今日も好天で、とてもきもちのよい日だったと呟いていた。
1-3.
一度お会いして、ごくみじかい会話を交わした女性が、「自分がさいきん疲れていることを認めなければいけない」というような主旨の呟きをしていた。
2-1.
自分のツイートから。問題が重層的であることをはっきり認識した。
https://twitter.com/#!/2boy/status/178734885131927554
この短い文章中で「問題」という言葉が二度出てくる。階層の異なる、ふたつの「問題」があるんだよ、というメッセージとして心に刻みました。 「再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。」 http://www.nikkei.com/news/category/related-article/g=96958A9C93819695E3E3E2E2E68DE3E3E2E1E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2
2-2.
さいきん、地震があると胸騒ぎを覚える。
このまま死ぬとしたら悔いが残るのは当然として、何がいちばん心残りだろうか。
本当に自分が何を求めているか、何を大切と思っているかが、端的な形で明らかになりつつある。食い扶持は食い扶持として考えなければならないけれど。
ある人の「ボルヘスなんてどうでもいいや。」ということばが脳裏に焼きついている。
過剰な喧伝はもう絶対にしたくない。
身の丈にあった語りをする人と、ともに歩んで生きたい。
(2-3.)
さしあたり今日は手紙を数通書こう。
できれば久田さんの著書を読んでから、夜はニコ生を観よう。
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