2019年12月31日火曜日

日記1231 H31/R(L)1, 2019

風邪を引いたかしれない。
みなさんどうですか。

昨日は部屋の片付けで、ノートや本のサルベージほか、色々捗るかと企んでいた。
まんまと捗って、ほくそ笑みたいと思っていたが。

平成に読んだ本のおさらいなんか、やりたいが。はやくて年明けかしら。

(『陳舜臣歴史短篇集 〈1〉 興亡流転篇』、自分にとってあたらしい小説の読み方を開拓する体験だった。また、最近の漫画の文法に学ぶ所、思う所もある。それらはいずれ。冗舌と沈黙、心理的な距離としては近いと思いませんか。)

自分固有の事情で今この瞬間はアクセスしづらいんですが。
風物詩としてのあれこれは、節目を感じられて、いいものか知れませんな。



『笑っていいとも』が終わったとき、ラス2のゲストが小沢健二だった。
指折る程度な回数のわがカラオケライフで、「さよならなんて云えないよ(美しさ)」を何度か歌った。
MV(PV)の、あの地下鉄の駅の感じは、独特で心に残りますな。
感傷的な暗さといいますか。
(一方で、ウキウキウォッチングを夢と感じるような流派もありましょう。)

いまの時代に、同じような表現が同じトーンで置かれたら特権的に感じられ、忌避されそうですが。
70年代よろしく、90年代にも失われてゆくものはあったんでしょうか。
(それをうまく言い当てることができたら、それができたらね!)

起きていることに言葉が追いつかない、というフレーズの耳触りは凡庸でしょうが、自分には馴染んだ表現でして。

上のとは微妙にずれそうですが、「時間差で意味がわかる」、あるいは「現在との関係で意味を捉え直す(される)」ということはソリッドにあると思うんですよ。
もっとうまく言えるんでしょうが、スプリングトレーニング(監督: 幸修司)で錆を落とす以前の段階ゆえ。
言葉遊びではなく、ある時点、現在いちばんわかりやすいですが、現在は潜在的に過去であったり、いつかから見た未来だったりするじゃないですか。
諸相ある、とかなんとか定式化するのも野暮ですが。必要な局面もごく稀ですが。紙ペラにラクガキ感覚で書いとる訳で。

何を言いたかったのか。謎のまま。

個別のピンポイントの体験で、そば屋で聞いた紅白のスキャットがなぜか記憶に残っていること、大晦日の『新幹線大爆破』上映を見損じたことを発表して、このエントリを終わります。

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