2017年1月20日金曜日

引用ノック0913:

そしてブレヒトの「外套」ってのは、その時ぼくがふと思い出して話したことなのだが、これはほんとうは『異端者の外套』という題のブレヒトの素敵な短編で、例の宗教裁判で火あぶりになったジョルダーノ・ブルーノに関した話なんだ。つまりブルーノは異端者として逮捕される直前に仕立屋に外套を注文するのだが、代金を払わぬうちに捕まってしまう(外套は彼の債権者みたいな裏切り者の手に届けられて、彼の手には渡らない)。そしてブルーノはそれから連日、神・宇宙・人間といった大問題をめぐる壮絶な異端審問をうけるわけだが、仕立屋のおかみさんはそういうブルーノを追いかけまわしてあくまでも仕立代を請求する。そしてブレヒトは、[……]その一方で、厳しい異端審問にフラフラになりつつもそのおかみさんのために精一杯手をつくすブルーノの姿を、それこそ溢れるばかりのやさしさをこめて書いているのだ。本当に素晴らしい短編なんだ。ところが『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ!』は、この二人の「端役」の悲劇を強調するために、ハムレットとオフィーリアを極端に矮小化し馬鹿げきった道化にしてしまう。(……)つまり(こんなことを話しているときりがないからやめるけれど)ぼくが思うのは、せめてこういう場合、ハムレットやオフィーリアにはしかるべき役者を立てて本来の演技をさせるのが作品そのもののためでもあるし、そういうパロディの最低のエチケットでもあるのじゃないか、ということなのだ。
(中略)
「そうなんだ」と、彼はかすれたような実に静かな声で言った。そしてそれから目を開けてまた天井を眺めながら、一語一語ゆっくりとかみしめるようにして話し出した。「[……]つまりおまえたちは一言でいえば正統派なんだ。そしておれはカーッと熱くなる。おれの中でおれのすごい野心みたいなものがカーッと目を覚ます。そして要するに一言でいえば、おれはおまえたちを、おまえをペースメーカーにしちゃえと考えたんだ。つまりおまえたちだって、おまえたちのやり方そのものじゃどうしても届かないようなもの、どうしても力及ばないものがおまえたちの生き方そのものの中にあるはずだ。それをおれは必ず見つける。おまえたち正統派の方法ではどうしてもできないものを、異端者のおれが見つけてそしてやってやる。つまりおれはただの反対者や反撥者じゃない、おまえの言い草で言えば足をひっぱったりするんじゃない。おれはおまえをペースメーカーに仕立てて、その背中にぴったりくっついてゆき、ゆさぶりをかけ、からみ、しかしあくまで冷静に観察して、自分の方法を見つけていく。おれはそうやって正統をのりこえてほんとうの異端となる。おい、分ったと言ったっていいよ。」
 ぼくは椅子にもたれて目を閉じてきいていた。なんだか、これまでのいろいろなことが急にはっきりとしてくるような気がしていた。そして目を開けてみると、彼が冷たくなったお茶を寝たまま一息にのみほし、手をのばしてテーブルに戻すのが見えた。ぼくはなんとなく立ちあがって、テーブルの下に置いてあった魔法びんをとり、急須のふたをあけてお湯を注ぎ、そしてお茶をいれた。彼はその間ずっと目を閉じてじっとしていた。ぼくは両方のお茶碗にお茶を注ぎ、それから黙って自分のだけ手にしてまたもとの椅子に腰かけた。ぼくが熱いお茶を一口のみ終るのを見届けたように、彼はまたゆっくりと話し始めた。
「[……]だから、東大がつぶれておれが困るっていうのは、ペースメーカーはきちんと分り易く走って欲しいという、おれのいわば御都合主義だ。おれのいわば注文相撲だ。だからね、そんなことだけならおれはなにもそうあわてることはないんだ。ほんとうの問題はだからそんなことじゃあない。問題はね、問題は……。」
(中略)
「[……]しかもいやなことは、この新しい敵ってのは、おまえたちみたいにはっきりとマークできるような見事な相手じゃない。なんともつかまえどころがないような得体の知れない何か、いわば時代の流れそのものみたいな何かなんだ。つまり、ちょうどおれがおまえたちがマークし、おまえを狙い撃ちしたみたいに、今度は、気がついたら、このおれもおまえたちと一緒になって時代の流れそのものからマークされ狙い撃ちされている、というようなそんな気がし始めたんだ。[……]」
(中略)
今度も『ブルーライト・ヨコハマ』だったけれど、「歩いてもー、歩いてもー、小舟のよおーにー」というところを、実にゆっくりとゆっくりと、しかも何度も何度も繰返しているのが分った。そしてそれが百回も続いたような気がしたあとで、やっと彼が静かに言うのが聞えた。
(中略)
ぼくは彼の方は見ず、ただひたすら一心に左足の包帯を見つめていたけれど、[……]まるで自分のことのようにはっきりと分った。
(中略)
          10

 その時だった。右の方から何か黄色いものがかすめるように前を通りすぎたかと思ったとたんに、ぼくは左足のそれもまさに爪なしの親指そのものの上を誰かに地軸まで踏み抜かれて、それこそ声も出ず身動き一つできぬまま全身を硬ばらせて縮みあがっていた。
(中略)
その右手にはいつのまにかちっちゃくたたんだ真白なハンカチーフがあった。
(中略)
一足歩くごとに痛みが頭とそれから目にまで響いたけれど、ぼくは一生懸命に歩いた。
(後略)

(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』 中公文庫、1973年 初出 :『中央公論』1969年5月)

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