「拙者一人だけは……」
ヒヤリと剃刀で撫でたような言葉。それはさきほどから隅の方に、黙々としていた机竜之助の声でしたから、一同の眼先は箭を合せたように竜之介の面に注ぐと、
「切腹は御免を蒙る……」
「何と言わしゃる」
「拙者は、まだここで死にたくないから、一人でなりとも生き残って、落ちてみるつもりじゃ」
「死にたくない?」
浪士たちの眼から電が発するようですけれど、[…]青白い。
「ふーん、死に怯れたな」
ほかの浪士は、憤激と軽蔑の眼を合せて竜之助を見る。
「拙者は死にたくない」
竜之助は冷やかなもの。
(中里介山『大菩薩峠』「竜神の章」)
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