私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜(すす)ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥(しり)ぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
(中略)
私は日中の光で明らかにその迹(あと)を再び眺めました。そうして人間の血の勢というものの劇(はげ)しいのに驚きました。
奥さんと私は出来るだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の布団に吸収されてしまったので、畳はそれ程汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。二人は彼の死骸(しがい)を私の室に入れて、不断の通り寐ている体(てい)に横にしました。(……)
(中略)
同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為(せい)でもありましょうが、私の観察は寧(むし)ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向って見ると、そう容易(たやす)くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、──それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決(しょけつ)したのではなかろうかと疑がい出しました。(後略)
(夏目漱石『こころ』新潮文庫、1952年)
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