2014年6月5日木曜日

メモ•腹案:『異邦人』ムルソーとその母について

〈太陽が眩しかったから殺した〉(※)のくだりが表すように、不条理が主題となっている、今でも広く読まれ愛されているらしいこの短篇(中篇)について、感想を。そして、根拠の参照しやすい、固体的な視点を記しておきたい。

まず地ならし。「不条理」という言葉はサルトルほか別の書き手たちも使っているが、カミュの使い方とその定義は割かしシンプルだ。
ひとことで云うと、現実世界(外界)と人間の精神(内面)にはどうしても致命的なズレが出てくる。この両者のズレを含む関係を不条理とカミュは呼んでいる。というのが自分の認識だ。
(もちろんカミュ自身の中でも著作の時期と種類によって揺らぎはある。不条理という形容が人間や現実に差し向けられることもある。)
(「関係」という言葉は自分の知る範囲で、キルケゴールの作品に頻出だったはず。参照:『死に至る病』冒頭)(暫定リンク:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222580562 あとで原文(翻訳)抜書き)
そして不条理に対する態度として、主人公ムルソーは潔癖(誠実)と沈黙を貫くが、最後に説教をしてくる神父に怒りを爆発させる。曰く、燃やすぞこの野郎と。しばく、殺すの上位置換ですな。できれば現実ではそのような言葉が飛び交う世界と無縁に平穏に暮らしたいものですが、この最近の殺伐さから自分は自由だと思うほどおめでたい感じにもなりたくはなし。

話を戻すと、主人公は養老院で母の死んだことに無感動だったこと(及び神信仰の否定表明により判事•検事•陪審員の心象を悪くしたこと)を理由に、ほんらい無関係なはずの(とムルソーが考えているであろう所の)殺人事件の裁判で罪を咎められる。
で、おそらくはこれだけの小説で無数に評論等々が書かれているだろうから、既に指摘はされているだろうけれど、有名な評論でもしばしば言い漏らしている事柄がある。
それは、ムルソーと彼の母の関係についてで、折り合いがつかなくなっていた、あるいは喧嘩別れなどで破綻していた可能性が高いということである。
(「それに、もう大分前から、ママンは私に話すこともなくなっていて、たったひとりで退屈していたんだよ」)
なぜこの可能性に注目したかと言うと、老犬に逃げられた老人と、母に養老院へ行かれてそこでフィアンセを作られる息子に同型のかなしさがあるように感じられたからだ。
(「一つの生涯のおわりに、まぜママンが「許婚(いいなづけ)」を持ったのか、また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。(……)死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生き返るのを感じたに違いなかった。何人(なんびと)も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。」)

(さして賢明でもない我が読者というか君もすでに気づいているように、この文章は単なる感想である。
ならばなぜ最初に不条理とは何かみたいなことをぶち上げたのか。今日は雨だから太陽も出ていない訳で、世界と人間どころか自分の意識ですら矛盾の集積所になっとるわけよ俺は。)

だから、母との不仲=ムルソーの冷淡というのは妥当に見えるけれども検証はされていない訳で、自分の「印象」では、むしろ母がムルソーとの関係を断ち切って行ったように読める。少なくともそう読んで矛盾するようには書かれていない。
だから、母の死といえども彼に複雑な感情が去来することは想像に難くないわけで、まあしかしそれを世間が非難するのもやむをやないというかこれまた想像に難くない。
自分の感情に誠実に振る舞うという点で、率直ではある。
そしてしきたりや自然とされている人間の感情を期待•要請する社会に対して、主人公が沈黙をつらぬくところがこの小説のテーマなのだろう。その沈黙と説明を拒否する態度は読者にも発揮されており清々しく、これが名作といわれる由縁のひとつなのでしょう。か。

とまれ、ちんぴら同士の報復にしても、女衒が女に騙されることとそれに復讐することなど、どれも不条理ではないんじゃないの、というのがいまのところの自分の正直な感想で、ではしかし照りつける太陽やら教会へ歩く道のりへの教訓めいた一説(『ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども、いそぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒けがします』)の象徴性が関係ないかと問われればそれはあるだろうと答える訳で、まずはこのパルプのようなゲル状な所感を示してから徐々に精錬させて行きたく思う次第です。

いずれにせよ、これが決定版だという読みがなさげでも、不条理でない部分はこうであると解明して納得していきたい。わからないことをありがたがるのは、その前提に然るべき手続きあってこそだと思う訳で。

その解き明かしがどの程度の範囲や深さで人を納得させるかはまた別の問題で、さしあたりの自分の関心は自分の考えを整理して育てていくこと、及びごく少数の友人に問題を提供することである。

※「私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。」

1 件のコメント:

坪井野球 さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。