“100本目”。(100)
「いらないのものは、いらないのである」、山さん(黒澤の師匠)は教えた。
「切れる! 切ろう! 切る!」、なぜ山さんは苦労して撮ったシーンを嬉しそうに切るのか。変態なのか。
山さんは変態というより、時間のプロなのだ。映画に限らず、過去が今の自分にとって疑わしい局面を迎えたとき、①「過去の苦労を『いる』と思いたいので切らない」か、②「切るからには、その苦労は『いらなかった』のだ」、と考えることが多いように思う。だから切るか切らぬか悩む。そうすると、やはり山さんは変態なのか。
山さんを「切り」へと駆りたてるものは何か。それは、「(かつて)必要だった」と「(今)いらない」は矛盾しないという確信だ。
山さんの「切り」に対するふんぎりの良さの根拠はわかった。まだあの「嬉しそうな顔」のナゾが残っている。やはり山さんは変態か。それもある、しかし自分はこう考える。なぜ過去(の苦労)を「切る」ときに快感が生じるのか。「切り」が新しい可能性をひらくからだ。新しい可能性がみえてから、「切り」を行うのがふつうの順序だが、時間のプロである山さんは、逆にまず「切り」、そこから強引に可能性をあみ出しているのではないか。
さっそく山さんにならって、自分の過去を編集してみよう。これはいらない。チョキン。これもダメ。チョキン。これはどうしようもない、チョキン。チョキン。チョキン。チョキン。
や、全部無くなった。いや、助かった。一つだけ残っていたぞ。
のぞいてみると、空手の自分が写っている。
鼻血が垂れてきた。
(坪井「鼻血」)
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