もちろん、われわれは昔のような時間と労力をかけた喪に服することはできない。しかし、たとえ日常の仕事に戻っても、それはまだ服喪の期間であることに思いを致し、自分なりの儀式を考え出すことによって、この問題を解決できるのではないだろうか。
(「喪」)
ところで、私が言いたいのは、ほんとうは現代の家族でもそれと同じようなことが起こっているのだけれど、それが目に見えにくいから難しいということです。(中略)お父さんは、「オオカミに囲まれたことはないが、それと同じようなことはあった」と言われるでしょう。おそろしいことは何かあったはずです。
(「父親の困難」)
「おまえはおれを傷つけたいんだな」父は言った。
「おれは、おまえの望む父親ではないだろう。理想の父親とか、そんなんじゃないだろうよ。だからといって、おれを傷つけることは許されない。おれがおれ自身にいうのをはばかったこと、それをおまえがいっていいと思うのはまちがいだ」
「おまえが知りたいのならいうがね、おれは自分自身と戦って、考えぬいたのだ。そして、ある日、はっきり悟った。おれの才能。その限界。おれの才能は、はたして自分の家族を飢えにさらす価値はあるのか、計りにかけ、その価値なしと認めて、真剣な気持ちでパンをかせぐことにとり組んだ。さあ、おれは今、静かに食事をしたい」
(「皮肉な言葉」)
その[『こころの処方箋』]の中に「ふたつよいことさてないものよ」という言葉がある。
(ふたつよいこと)
(河合隼雄『対話する家族』 潮出版社 1997年)