2017年9月17日日曜日

引用ノック0943:

(……)強制された善はそれだけでもう善ではない。かくしてそれは悪にもなる。ところが、唯一の善であるところの自由な善は、悪の自由を前提とする。ここに自由の悲劇がある。(……)
 善は強制せられ得ない。人を善へと強制することはできない。善の自由は悪の自由を前提とする。ところが、悪の自由は自由そのものをほろぼし、それを悪い必然性へと変性させる結果となる。しかし他面、悪の自由を否定し、もっぱら善の自由のみを肯定することもまた、自由の否定となり、自由が善い必然性へと変性する結果を生む。だが、よき必然性とはすでにもう善ではない。なぜなら、善は自由を前提とするものだから。
(中略)
 この真理を証明するのが、ラスコーリニコフやスタヴローギンの、キリーロフやイヴァン・カラマーゾフの運命である。妄想へと駆られた自由が彼らをほろぼしたのだ。しかしこのことは、彼らが強制のもと、外的に規制する法則の独占的支配のもとにおかれるべきであったという意味ではない。彼らの没落はわれわれに光をもたらす。彼らの悲劇は自由への讃歌である。
(中略)
 ドストエフスキーは、驚くべき迫力をもつ弁証法でもって、人間の意識にたいする反逆的合理主義と、人間の生活にたいする反逆的革命主義との宿命的結末を探求する。無限の自由とともにはじまった反逆は、不可避的に、思考における必然性の無限の支配と、生活における無限の圧制とにおもむく。
(……)もしも世界がもっぱら善であり純粋であるならば、神の必要もなく、世界はすでに神となっているであろう。(後略)

(ベルジャーエフ「自由」斎藤栄治訳 『ドストエフスキーの世界観』(白水社、1960)、『文芸読本 ドストエーフスキイ』(河出書房新社、1974)など所収)

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